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松坂大輔と組んでいた上地雄輔の野球の実力は?高校時代の成績を調査!

      2016/12/06

芸能界ではやたらと高校野球がブームなようだ。

アメトークでの高校野球大好き芸人が好評で第二弾、第三弾と放送されたため続々と高校野球マニアを名乗る芸能人が出現した。
中には本物の高校野球マニアも存在するが、これまでに高校野球やプロ野球にすら言及したことがないタレントが高校野球好きを名乗りだしたら高確率で便乗商法だ。

さて、そんなブームに乗ってやろうという意欲の高い人間が多い芸能界にも高校球児だったという人物も存在する。
地方予選止まりの一般校から甲子園常連の強豪校出身者まで様々だ。

その中でもトップクラスに位置するのがタレント・上地雄輔だ。

彼は強豪・横浜高校の出身。
ポジションはキャッチャーであの松坂大輔とバッテリーを組んでいたのだ。

横浜高校ほどの強豪で松坂大輔とバッテリーを組んでいたなら当然プロへの道も考えられたはずだ。
しかし彼はプロではなく芸能界で活動する道を選んだ。

日本テレビアナウンサーの上重聡アナのように甲子園で活躍した選手でさえプロではなく別の道に進むこともあるので不思議ではない。
不思議ではないが、何故?という疑問は湧いてくるだろう。

そこで、上地雄輔の横浜高校における実力や成績プロを目指さなかった理由を調べてみた。

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上地雄輔の高校野球での成績

それでは上地雄輔と高校野球について見て行こう。

先に述べておくと、彼は甲子園への出場経験は無い。

横浜高校は強豪で甲子園出場経験が豊富だ。
松坂大輔が三振を取って優勝したシーンは何度もメディアで放送されているのでその時のキャッチャーが上地雄輔と思われがちだが違う。

あのシーンは松坂大輔が3年の時のものだ。
上地雄輔は松坂大輔の1年先輩にあたる。

野球を始めた6歳~中学

上地雄輔が野球を始めたのは6歳から。

中学では1991年と1994年に全日本選抜メンバーとして世界大会へ出場している。

横浜高校入学

上地雄輔は当初、横浜高校ではなく茨城県の常総学院へ進学することを希望していた。

そんな気持ちに変化が起きたのはテレビで横浜高校の丹波慎也投手(1年)の投球を見たからだ。

『この人の球を受けてみたい!』

新たな希望を抱いた上地雄輔は横浜高校への進学を決めた。

1年時から練習試合に出場したり、丹波慎也投手とバッテリーを組ませてもらったりと期待の大きい選手だったようだ。

丹波慎也について

余談だが、丹波慎也投手は1995年8月17日に心臓発作で急逝している。

ひじを痛めて横浜高校野球部を退部していた兄の丹波幹雄が彼の遺志を継いで最終的にプロ野球・ヤクルトスワローズへ入団した。

1995年度の成績

ここからは年度ごとに上地雄輔の成績を追っていこう。

1995年度(平成7年) の秋季神奈川大会、2回戦(1995年9月10日、横浜高長浜グランド)の試合で上地雄輔の名前が確認できる。

おそらく高校での初公式試合と思われる。

なお、以降の情報は独自に収集したものであり、正確性に問題があるかもしれない点はご了承頂きたく。

1996年度の成績

1996年度 夏季神奈川大会

1996年度(平成8年)の夏季神奈川大会、4回戦(1996年7月25日、大和引地台球場)で、再び上地雄輔の名前が確認できる。

彼は2年時の夏の大会で怪我をしたそうだ。
この大会以降は10か月に及ぶリハビリ生活に入った。

1996年度 秋季神奈川大会

1996年度(平成8年) 秋季神奈川大会、準々決勝(1996年9月29日、平塚球場)に上地雄輔の名前が確認できる。
この時は(遊)なので、ショートでの途中出場のようだ。

リハビリ中の為だろうか?
詳細までは不明だ。

1997年度の成績

1997年度、上地雄輔は正捕手の背番号2で登録されている。

1997年度 春季神奈川大会

1997年度(平成9年) 春季神奈川大会、決勝(1997年5月4日、相模原球場)

(打捕)となっているので、代打で入ってキャッチャーの守備についたのだろう。

1997年度 第49回春季関東大会

1997年度(平成9年) 第49回春季関東大会、2回戦(1997年5月18日、茨城県営球場)

犠打が松坂、上地となっている。

上地雄輔は、インタビューで「高校時代に特に印象に残っていることは?」という質問に対して次のように答えている。

『怪我から復帰した関東大会前橋工戦で松坂(大輔・ボストンレッドソックス)に首を振られたことですね』

この試合のことだろうか。

1997年度 夏季神奈川大会 2回戦

1997年度(平成9年) 夏季神奈川大会、2回戦(1997年7月18日、相模原球場)

1997年度 夏季神奈川大会 3回戦

1997年度(平成9年) 夏季神奈川大会、3回戦(1997年7月22日、平塚球場)

1997年度 夏季神奈川大会 4回戦

1997年度(平成9年) 夏季神奈川大会、4回戦(1997年7月24日、保土ヶ谷球場)

1997年度 夏季神奈川大会 準々決勝

1997年度(平成9年) 夏季神奈川大会、準々決勝(1997年7月27日、保土ヶ谷球場)

高校3年、最後の夏の県予選では2回戦、3回戦、4回戦、準々決勝に出場。
しかし準々決勝で敗北、甲子園出場は果たせなかった。

上地雄輔は何故プロにならなかったのか

怪我に泣かされた高校時代だったとは言え、強豪・横浜高校でレギュラーだった上地雄輔の実力は当然だが高い。

彼は何故、野球で大学へ進学、プロの道へと進まなかったのだろうか。

ん~。そうですね。怪我が無かったら、野球で大学に行くのが当たり前だと思っていたし。やっぱりリハビリしている期間にいっぱいいろんな事を考えて、将来の事とか、親、監督、仲間、ファンの事を考えて、「ちょっと待って下さい」と監督に伝えました。小学校・ジャパン。中学校・ジャパン。高校・横高。大学・野球。社会人といきそうな野球の流れを1回停めて考えたかったので「ちょっと待って下さい」と監督に伝えました。

2年生時の怪我がその後の人生における分岐点だったようだ。

練習をサボっていた?

一部インターネットでは上地雄輔は性格的にいい加減でチームワークが苦手、練習をサボっていたという噂も出回っている。

筋トレもできないし、何をやっていいのか分からなくて、気持ちが萎えそうでした。神経に障るのでランニングもできないし。ホントに24時間すべて野球の事を考えていたから。私生活のすべて。電車に乗る位置とか。(動体視力を鍛えるトレーニングをしていたそうです。)こっちの球にはミットをこうだすとか。バックは右肩ではかけないとか。
すべて野球中心だったのが、何をしていいのか分からなくて。野球はもうできないと思ったし。だけど最後の最後1月に別の病院に行ったら、「今までの病院は何をやっていたんだ」と言われ、「すぐ入院、手術しなくては駄目だ。それでもフィフティーフィフティーだ。」と言われて。それでも可能性があるならやって下さいと言って手術しました。

もしかしたらこのような話が曲解されて噂になったのかもしれない。

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